No.53
2010/01/11 (Mon) 02:16:43
その日もアーノンは疲れていた。
ヴィエリがリストランテに居座る数時間、彼の視線をどこかで意識しては精神が磨耗するのを感じていた。
何故そこまで神経を逆撫でされるのかはアーノン自身にも分からない。
分からないからこそ苛立ちは募る。
だからこそ唯一、ヴィエリを忘れる事が出来る自室で過ごすプライベートの時間が、アーノンには何より大切に感じられた。
目下の興味は車だ。ニコルのバイクに乗るようになってから、あの風を切る感覚の虜だった。街の喧騒、乱立するビルの間を通り過ぎ、目の前が開けた瞬間――何処までだって行けるような開放感は、何よりも得難いものだった。ただもっとゆったりと寛げる空間が好ましく、オープンカーなんて良いのではないかと考えている。
それに乗って休日に遠出するのも悪く無い。
まずは運転免許を取得するのが先とはいえ、ベッドに潜り込んで車雑誌を覗き込んで妄想に耽っていると、疲弊した心が慰められる気がするのだった。
だから、そんな時間をぶち壊すように鳴動する携帯電話は、気もそぞろなままで応じてしまった。
それこそ、ディスプレイで相手を確認する事もせぬまま――。
最近のアーノンはすこぶる不機嫌で、その原因をビアンコのスタッフは全員知っていた。
元々満面に笑顔を浮かべているような青年では無いものの、話しかけにくいと感じられた事は無い。それなのに今のアーノンときたら始終眉間に皺を刻み、人を射殺せそうな程鋭い眼光を放っている。
仕事中は完璧なソムリエの顔を崩さないからこそそのギャップが恐ろしい。
触らぬ神に祟りなし、と誰もがアーノンを避ける中、空気を読まないのはルーカだけ。
その日恋人のアパートから直接出勤したルーカは、スタッフルームで着替えているアーノンを見つけるなり、その仏頂面をからかった。
(あぁ、またアーノンの怒鳴り声が木霊するのだろうなぁ)
とスタッフが内心でため息を――つこうとして、鈍い音とルーカのくぐもった悲鳴にその動作を完全に止めた。
がしゃん、と身体ごとロッカーに激突したルーカの向かいで、アーノンが握り拳を震わせている。
ずるり、と崩れるルーカが頬を押さえて蹲った。
「いっつー……」
静まり帰ったロッカールーム。
着替え途中で目を見開いたままのスタッフが、唯一認識した事といえば、アーノンがルーカを殴ったのだという事だけだ。
ただ何時も通り、浅はかなルーカが、アーノンの逆鱗に触れた。
そんな事は今まで幾度と無くあったけれど、アーノンが手を出した事は一度としてない。
軽く小突くだとか、叩くという事はあったとしても、こんなにも容赦の無い一撃を与えているのは見た事が無い。
例えば深夜の裏通り、飲み屋の界隈でチンピラ相手に拳を振るうアーノンは見た事があったとしても、アーノンの拳は弱者には向けられない。
リストランテの中でも最弱のルーカである。
片割れと違って喧嘩に巻き込まれようものなら、逃げ出すか泣き出すような男である。
そんなルーカに呆れながらも、疎む素振りを見せながらも、どこまでも仲の良い双子である。
呻くルーカを見ても、ルーカの歯にでも当ったのか血の滲むアーノンの拳を見ても、とても信じられない事実がそこにあった。
「何の音ですか?」
静寂を破ったのは、剣呑な音を聞き付けたオット・ダントーニだった。
とっくの昔に着替え終え、オーナールームでフレンツォと打ち合わせでもしていたのだろう男は、ロッカールームの内側を覗き込むなり顔形を歪めた。
細いフレーム眼鏡の奥の双眸が、冷たく光る。
「何をしているんです」
後手にロッカールームのドアを閉め、真っ直ぐに双子に向かっていく長い足。その靴は綺麗に磨きこまれている。
カツカツ、と響く足音に、そっとルーカが顔をあげると、その男はすぐそこまで迫っていた。
「あの!!――つっ」
弁解の為か声を上げたルーカだったが、痛みの為に言葉が続かない。
オットの視線は益々険しくなり、今度は真っ直ぐにアーノンに向けて問い掛ける。
「何をしているのかと聞いてるんです」
オットというのは名門貴族の長子として、人の上に立つ貫禄を持った男である。静かに紡がれる言葉の中に底冷えするような色を称え、けして無視出来ない響でもって答えを要求している。
対するアーノンは怒りに燃える顔を拒絶の意味で逸らす。唇を噛み締めたまま、口を開く気配は無い。
その沈黙下が何よりも恐ろしく、残ったスタッフは動くことさえ出来ない。
それでもオットに続いてやってきたジーノ・デ・シーカだけは、そんな空気を物ともせずルーカに駆け寄って濡れタオルを手渡している。
それをアーノンは横目に視認する。
「アーノン」
呼ばれて無視できず、アーノンは瞳をオットに向けた。
オットの深いエメラレルドの瞳が、細められる。冗談を解さない生真面目な男の無機質な顔の中、瞳だけが雄弁に物を語っている。けして事態を軽んじていない、曖昧に逃がしはしない、そんな意志が篭もっていた。
「……ただの兄弟喧嘩だよ」
硬い声音で吐き出したアーノンが、くっと喉元で笑った。
脅える色も悪びれる様子もなく、不遜に顎を持ち上げる。
「あんた達兄弟だって良く喧嘩するだろ? 大した事じゃねぇだろうが」
「職場で殴り合いの兄弟喧嘩が大した事無いと?」
オットの周りの空気だけが、冷気を帯びる。見ている者の方が身震いしてしまう程の、怒気が満ちる。
もう一度喉で笑ったアーノンの瞳は、宝石のように美しかった。
「ああ」
アーノンが淀みも無く頷いた瞬間、その頬にオットの張り手が飛んだ。
→NEXT
ヴィエリがリストランテに居座る数時間、彼の視線をどこかで意識しては精神が磨耗するのを感じていた。
何故そこまで神経を逆撫でされるのかはアーノン自身にも分からない。
分からないからこそ苛立ちは募る。
だからこそ唯一、ヴィエリを忘れる事が出来る自室で過ごすプライベートの時間が、アーノンには何より大切に感じられた。
目下の興味は車だ。ニコルのバイクに乗るようになってから、あの風を切る感覚の虜だった。街の喧騒、乱立するビルの間を通り過ぎ、目の前が開けた瞬間――何処までだって行けるような開放感は、何よりも得難いものだった。ただもっとゆったりと寛げる空間が好ましく、オープンカーなんて良いのではないかと考えている。
それに乗って休日に遠出するのも悪く無い。
まずは運転免許を取得するのが先とはいえ、ベッドに潜り込んで車雑誌を覗き込んで妄想に耽っていると、疲弊した心が慰められる気がするのだった。
だから、そんな時間をぶち壊すように鳴動する携帯電話は、気もそぞろなままで応じてしまった。
それこそ、ディスプレイで相手を確認する事もせぬまま――。
最近のアーノンはすこぶる不機嫌で、その原因をビアンコのスタッフは全員知っていた。
元々満面に笑顔を浮かべているような青年では無いものの、話しかけにくいと感じられた事は無い。それなのに今のアーノンときたら始終眉間に皺を刻み、人を射殺せそうな程鋭い眼光を放っている。
仕事中は完璧なソムリエの顔を崩さないからこそそのギャップが恐ろしい。
触らぬ神に祟りなし、と誰もがアーノンを避ける中、空気を読まないのはルーカだけ。
その日恋人のアパートから直接出勤したルーカは、スタッフルームで着替えているアーノンを見つけるなり、その仏頂面をからかった。
(あぁ、またアーノンの怒鳴り声が木霊するのだろうなぁ)
とスタッフが内心でため息を――つこうとして、鈍い音とルーカのくぐもった悲鳴にその動作を完全に止めた。
がしゃん、と身体ごとロッカーに激突したルーカの向かいで、アーノンが握り拳を震わせている。
ずるり、と崩れるルーカが頬を押さえて蹲った。
「いっつー……」
静まり帰ったロッカールーム。
着替え途中で目を見開いたままのスタッフが、唯一認識した事といえば、アーノンがルーカを殴ったのだという事だけだ。
ただ何時も通り、浅はかなルーカが、アーノンの逆鱗に触れた。
そんな事は今まで幾度と無くあったけれど、アーノンが手を出した事は一度としてない。
軽く小突くだとか、叩くという事はあったとしても、こんなにも容赦の無い一撃を与えているのは見た事が無い。
例えば深夜の裏通り、飲み屋の界隈でチンピラ相手に拳を振るうアーノンは見た事があったとしても、アーノンの拳は弱者には向けられない。
リストランテの中でも最弱のルーカである。
片割れと違って喧嘩に巻き込まれようものなら、逃げ出すか泣き出すような男である。
そんなルーカに呆れながらも、疎む素振りを見せながらも、どこまでも仲の良い双子である。
呻くルーカを見ても、ルーカの歯にでも当ったのか血の滲むアーノンの拳を見ても、とても信じられない事実がそこにあった。
「何の音ですか?」
静寂を破ったのは、剣呑な音を聞き付けたオット・ダントーニだった。
とっくの昔に着替え終え、オーナールームでフレンツォと打ち合わせでもしていたのだろう男は、ロッカールームの内側を覗き込むなり顔形を歪めた。
細いフレーム眼鏡の奥の双眸が、冷たく光る。
「何をしているんです」
後手にロッカールームのドアを閉め、真っ直ぐに双子に向かっていく長い足。その靴は綺麗に磨きこまれている。
カツカツ、と響く足音に、そっとルーカが顔をあげると、その男はすぐそこまで迫っていた。
「あの!!――つっ」
弁解の為か声を上げたルーカだったが、痛みの為に言葉が続かない。
オットの視線は益々険しくなり、今度は真っ直ぐにアーノンに向けて問い掛ける。
「何をしているのかと聞いてるんです」
オットというのは名門貴族の長子として、人の上に立つ貫禄を持った男である。静かに紡がれる言葉の中に底冷えするような色を称え、けして無視出来ない響でもって答えを要求している。
対するアーノンは怒りに燃える顔を拒絶の意味で逸らす。唇を噛み締めたまま、口を開く気配は無い。
その沈黙下が何よりも恐ろしく、残ったスタッフは動くことさえ出来ない。
それでもオットに続いてやってきたジーノ・デ・シーカだけは、そんな空気を物ともせずルーカに駆け寄って濡れタオルを手渡している。
それをアーノンは横目に視認する。
「アーノン」
呼ばれて無視できず、アーノンは瞳をオットに向けた。
オットの深いエメラレルドの瞳が、細められる。冗談を解さない生真面目な男の無機質な顔の中、瞳だけが雄弁に物を語っている。けして事態を軽んじていない、曖昧に逃がしはしない、そんな意志が篭もっていた。
「……ただの兄弟喧嘩だよ」
硬い声音で吐き出したアーノンが、くっと喉元で笑った。
脅える色も悪びれる様子もなく、不遜に顎を持ち上げる。
「あんた達兄弟だって良く喧嘩するだろ? 大した事じゃねぇだろうが」
「職場で殴り合いの兄弟喧嘩が大した事無いと?」
オットの周りの空気だけが、冷気を帯びる。見ている者の方が身震いしてしまう程の、怒気が満ちる。
もう一度喉で笑ったアーノンの瞳は、宝石のように美しかった。
「ああ」
アーノンが淀みも無く頷いた瞬間、その頬にオットの張り手が飛んだ。
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