No.249
2011/10/09 (Sun) 00:17:09
またしても、

オフィリアが彼女の『特殊な仕事』の為に部屋を下がると、マゼルは隠さずに大きな溜息をついた。
オフィリアと交代でやって来た二人の侍女は隣室で待機していたが、オフィリアを相手にする時ほどの疲労感を感じる事は無い。
労せずして王妃の仮面を被ったマゼルは二人の息子の安らかな寝顔を確認すると、寝室を抜け出た。
傅く二人の侍女に、命じる声は凛としている。
「ヨシュアとローランをお願い。わたくしは、研究室に参ります」
「畏まりました、ミュ・ゼラ」
”我が主”と呼んで応える声にも、マゼルと同様親しんだ色は無かった。
「いってらっしゃいませ、レスティー」
そうして今一人が“王妃”と彼女を称えても、マゼルはニコリともせず、視線一つくれずに部屋を後にした。
昼夜変らずひっそりとした後宮の廊下を、マゼルは足早に進み行く。
向かう先は後宮内にある研究室だ。マゼルがグランディアに召喚されてすぐ、ディーダ国王がマゼルの為に誂えた。
今やそこが唯一の、マゼルの安息の場所だった。
母国に在った頃から、彼女は青薔薇の誕生を夢に見、その研究に携わる次兄や研究所の所長である叔父と共に、その道を突き進んできた。
それを知ったディーダ国王は彼女の夢を後押ししてくれたのだ。
残念ながらここグランディアを含む異世界の技術では青薔薇開発は夢のまた夢であったが、それでもマゼルには充分だった。
小さな温室と薬品室、それから二人の職員。庭師イェルとその助手である少年セドックは化学者でも、特別な知識を持つわけでもない。傍から見れば彼女達三人のしている事は、庭弄りの延長だった。
それでも、構わない。
扉を開けた瞬間、「レスティー」と呼んで走り寄ってくるセドックと、微かに微笑む老齢の庭師とを交互に見て、マゼルは安堵の表情を浮かべた。
正直、マゼルはレスティーと呼ばれる事を好まない。かつてはその名で呼ばれる度に気恥ずかしさを感じると同時に胸も躍ったが、その意味を知った瞬間に、気持ちは萎えた。
ディーダ国王の妻、という立場に、浸っていられた間は良かった。王妃である事が嬉しいのでは無く、愛しい相手の妻である事が誇らしかった間は。
けれど立場に縋る事にしか出来ない今となっては、悲しみの象徴でしかないのだ。
レスティーは王妃を意味する。けれど王妃を意味する言葉はもう一つあるのだ。正妃を意味する、エマンジェスティという言葉が。その瞬間から、レスティーという呼び名は、正妃にはけしてなれない自分を蔑む呼び名になった。
対外的には、マゼルは王妃だ。ディーダ国王の、ただ一人の妃だ。けれどそれでも、側妃でしかない。マゼルにとってディーダ国王は唯一だったが、ディーダ国王にとっての、唯一では無い。
それが耐え難い苦しみである今において、レスティーの称号に、何の意味もありはしない。
けれどセドックが口にするレスティーという音は、心地良く耳に聞こえる。
「見て下さい、レスティー! 4号に、今日こんなに大きいミミズが!」
セドックは大切そうに握っていた両手を解いて、掌のミミズをマゼルによく見えるように持ち上げて、とても嬉しそうに笑う。
マゼルもまた微笑みを深めて、セドックから躊躇いもなくミミズを受け取った。
「まあ、それは素敵ね」
人差し指でミミズの身体を突くと、奇妙にそれが動く。滑った血管のようなその生物を女性のほとんどが嫌うだろうし、プレゼントされて嬉しいと思う人間は稀だろう。幼少時の男の子が女の子相手見せて泣かせる、といった類の意地悪の手法に良く利用される生物の一つといって良い筈だ。
けれど園芸家にとっては、大切な友人と言ってもいいかもしれない。
八区に分け、それぞれに1号から8号と名付けた温室の区画、その4号の土壌は、新しい研究の為に開発している途上だ。肥料や薬品を配合して様子を見ていたのだが、その土で育てた植物やミミズは育たない内に死んでしまう。土を食べるミミズが太く大きく育てば、土壌の改良がうまくいっているという事に他ならない。
屈託無く笑うセドックにミミズを返しながら、マゼルはイェルに顔を向ける。
「何か変った事は?」
「ありませんです、レスティー。ああ、でも、8号のアレクセス・ローズは調子が良さそうです、はい」
「本当?」
アレクセス・ローズは、グランディアの王都であるここアレクサの、それも王城の土壌でなければ咲かないという極めて稀有な薔薇だ。洗ったシーツのような眩しい程の純白な花弁に、棘の無い茎を持つ。近種を持たないその薔薇は、その存在感と希少価値も含めて、王家の薔薇という意味でアレクセス・ローズと呼ばれている。
奇蹟の薔薇ともあだ名されるそれは、色こそ違えどまるでマゼルが追い求める青薔薇のような存在だと思われた。
だからこそマゼルはアレクセス・ローズの生態研究を主だったものとしていた。
純粋に興味を持った事も確かだが、それ以上に、王に寄り添う存在、という意味でエマンジェスティの肖像画に描かれるその花に、駆り立てられる想いがあった。
自らの肖像画には描かれる事のない薔薇。その花もがエマンジェスティが王の唯一である、とマゼルを嗤っているように感じてしまう。
アレクセス・ローズは特別な薔薇。誰にもその質を分け合わない、孤高にして、絶対の存在。
その薔薇を交配させて同じ品種の別の薔薇を作る事が、今のマゼルの夢だった。
その不変を叶えた時、己の願いも叶うのではと、期待を抱きながら。
「では、4号の土壌に8号のアレクセス・ローズを一株、移して頂戴。今日から朝と、晩、花の周りに砂糖水を与えてね」
「砂糖水ですか?」
「そうよ。花が散ったら、根こそぎ引き抜いて。大切なのはそこからなの」
「どうしてです、レスティー!」
怪訝そうに首を傾げるイェルと、純粋に興味深そうに眼を瞬かせるセドックに、マゼルは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「それはその時の、お楽しみよ」
軽やかに笑みながら、けして大きくない薬品室の、最奥へと進んでいく。その奥にはもう一つ、彼女だけの研究室があるのだ。
「後は何時も通りお願いね」
「分かりました、レスティー」
二人が頷くのを待ってマゼルは扉の鍵を閉めた。
そうしてやっと彼女は、レスティーとしての仮面も、マゼル・アラクシスの仮面も脱ぎ捨てる事が出来る。
研究に没頭している間の彼女は、誰でもない、一人の研究者なのだった。
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