No.36
2009/11/26 (Thu) 23:48:19
彦一は常々、自身が『主』と呼ぶ男には、血も涙も無いものと思っていた。
齢は五十にもなろうかという白髪混じりの男は、物騒な生業についている割には、どこぞのお武家様でもあるかのような品を持つ。当主、という立場に似合う貫禄と威厳を備え、怜悧な厳しさでもって彦一達に対する。
彼が殺せ、と一言、冷たく言い放つ声は最早彦一には馴染み深い。
彦一が男の元に売られたのが十の頃、それからかれこれ七年は経つ。その間に同じように売られてきた少年少女は何百にも上る。
年端のいかない子供達に殺しの術を教え込み、どこかしこの戦場に送り込む。大金を積まれ請われれば、それこそ路傍の石ころを池に投げ込むかのように惜しげも無く、子供達の命は朝露のように儚く消えた。
そうやって男は、裏の世界で栄えていた。
男に命じられるまま、彦一も何十何百という人間の命を奪ってきた。それこそ数えたらきりがないし、意味も無い事だ。相手が誰にしろ何の因果を持つにしろ、彦一には関係の無い事だった。
かつては兄と慕った仲間を、その手にかけた事もある。
ただ主人が命じる相手を屠る、それが与えられた仕事だったのだ。
彦一が与えられた仕事をこなせば、男は労いの言葉をかける事もある。ただしそれは上辺だけで、けして男の顔面に感情が上る事は無かった。
どんなに彦一がテダレとして重用されようと、彦一は駒の一つであり、いくらでも替えがきく。何時か自身が斃れても、自分の代わりとなる者が後に控えている事も知っていた。
所詮子供達は、男にとってはそういう存在でしかない筈だった。
江戸の都でその駒の一つが絶えたと聞いたのは、晩春の夜だった。
誰ぞが土産に寄越した酒を、主人が皆に振舞ったのだ。彦一も普段の功績を買われ、一席を設けられていた。酒は嗜む程度、呑まれる程好んでも無い。ちびちびと盃を傾けて、開け放たれた障子の先、散っていく巨桜の様を眺めていた彦一の隣で、俄かにさざめきが起こった。
赤ら顔の男が、勿体無い事だと嘆いて、何事かと皆が一様に耳を傾けた。
【鬼】と呼ばれ畏れられた暗殺者の事は、彦一も風の便りで聞いた事がある。鬼の面を被って、軽やかに、舞うように、人を殺める殺人鬼。目的が何事か知れぬ、殺人快楽者との呼び声高い。それがどうやら自分達と同様に、この屋敷で育った者だったのだという。その腕たるや凄まじく、大の男が何人がかりで飛び出そうと、柳のようにするりとかわされる。そう思った頃には既に傷跡を残されている、のだとか。
その仕事が絶賛されこそ、杞憂など一つも抱かせない、真の刃。
しかしそんな名うての駒も散り逝ったのだというのだから――己らも慢心するなよ、と卓に突っ伏してしまった赤ら顔の言葉を引き継いで、主人の腹心の部下が最後にそう戒めた。
けれど彦一は上座に座る主人の厳しい顔に、一瞬過ぎった陰にこそ気を取られた。
それは今まで主人の表情に見た事が無い色。ただ、彦一の記憶に根を下ろす過去に、別の人間が浮かべた色だった。
かつて自分を捨てた両親が、その最後の日に見せた、後悔、憐憫、哀愁、そして痛みだ。
許せ、と言いながら泣いた父と母。その顔に主人の顔が重なって、我知らず小首を傾げた彦一が――後で知った話には。
その江戸で死んだ【鬼】が、主人の唯一の血縁であったという事実。
人の命など毛程も気に留めていないような、血も涙もないような、あの主人にも肉親の情があったのか、と、彦一はただただ不思議に思ったものだった。
それももう、今となれば数年も前の話だ。
何故今になってそんな他愛も無い記憶が思い起こされたものか、と。
何故こんな時に、と。
彦一はけしてその黒硝子の双眸を揺らす事も無く思った。
喉元では笑ったつもりだった。笑えたつもりだった。
けれど凍り付いた表情は、彦一の頬の僅かな筋肉さえぴくりともさせぬ。
壁に背をつけ、ゆるり、と顔を上げる。
寒い寒いと思っていたら、ついには雪まで降ってきた。
雪は嫌いだ。
好きも嫌いも当の昔に置いてきたと思っていたが、視界をゆらりゆらりと遮る真白に浮かぶ嫌悪感は本物だった。
消したくても消えてくれぬ過去が、時折こうやって浮上しては彦一を苛める。
感情をそぎ落とす事は容易くない。
そうしたいとどんなに願い、そうありたいと切望して努力しても。
凍りつかせた感情は、糸も簡単に浮上する。
雪は嫌いだ。
しんしんと降り積もる雪が、視界を銀色に染め上げていく。暗い夜に、美しく灯る。
かつてその中を、幸福感を持って歩いた事がある。
大好きな両親に手を引かれ、その後の悲しみを知らずに、歩いた事がある。
そんな事を思い出したのも、今彦一が辿る道程が、まさにその時のそれだったからだろう。
幼い足で必死に踏み締めた雪道を、今は一人、軽い足取りで颯爽と駆けている。
しかしその心は足取りとは裏腹に酷く重い。
脇に抱えた風呂敷から、赤い色がぽたりぽたり、雪の上に染みを作る。それは彦一の足跡に、静かに重なっていく。
けれどやがて積もる雪の中に消えていく。
風呂敷を抱え直す。我知らず、抱きしめるように、大事に。
寂れた小さな村は、雪の中に埋もれてしまいそうだ。
田畑は既に跡形も無く、銀一色に覆われている。平屋の屋根からドサリ、重い音が落ちる。
記憶に微かに残る、村。自分が生まれ、幼少期を過ごした村だ。裏の炭坑跡で遊ぶようにして岩を削っていた頃が懐かしい。
懐かしい、と思えた。
自分を拒絶した小さな家。その引き戸を荒々しく叩けば、中から訝しげな問い掛けが返る。
「旦那を連れて来た」
無機質な彦一の声は掠れていた。それでも恐らく中の者に届いたのだろう。慌しく開かれた扉の奥、暖かな家庭の匂い。
遠い記憶に息づく人。
旦那を連れて、と言った筈が、しかし彦一一人であれば誰でも戸惑うだろう。その顔が氷のように何の色も浮かべていないと知れれば尚更。
かつての彦一の家族。
老いた母親。乳飲み子を抱いたあれは姉だろうか。その隣の優男はその旦那だろうか。男の膝の幼女は誰だろう。奥で立ち上がりかけた青年は、一番下の弟だろうか。
けれどその誰もが、彦一を、奇妙な訪問者としてしか見ていなかった。
微かな自嘲が浮かぶ。
一体何を期待したのか、と胸の内に生まれた憤りを嘲る。
自分は一体何を期待したのか。かつて主人が抱いたように、彼らの中に肉親の情でも見出せるとでも思ったか。
固まる家族に向けて、彦一は脇に抱えていた風呂敷を投げた。軽くぽい、と捨てるように、玄関先で鞠のように跳ねたそれ。
ただ包んでいただけだから、風呂敷は動きに合わせて解けた。
出でたものに絶叫。悲鳴。泣き出した幼女を母親と思しき女が抱きしめた。
老け込んだ父親が、一瞬誰だか分からなかった。刃を持って対峙した時、何だか見知っているような気がして。けれど慣れた身体は老人の太刀を避けて肉を切り裂いた。血を吐き出す男の目尻に浮かんだ涙を見て、ああ、と得心が言った。
何故父親が主人の仕事のリストに名を載せたのかは知らない。関係が無い。興味も無い。
ただ自分が「殺せ」と命じられた一人が、彦一を捨てた父親だったのだと。
躯と化したそれを見下ろして、彦一は、ただ納得した。
ああだから見覚えがあったのか、と。
それを家族の下へ持ち帰ったのは、ただの気紛れでしかなかった。
懐郷というには余りに滑稽で。今更愛情など求めても何にもならないし、意味も無い事だ。
こうしてまみえてみても、家族の誰一人、今父親の首を持ち帰ったのが誰であるかに気付きもしないのだから。
「僕が、その人を殺した」
淡々と紡いで、ぞっとする程に冷たい眼差しで彼らを睥睨する。
恐れ慄き、瞳に憎悪を宿す一家を彦一はただ見つめた。
「僕が、あんた達の父親の仇だよ」
やっと過去と決別出来るような気がして、彦一は大きく息を吸い込んだ。
びゅう、と背後から雪が吹き込んだ。
それが彦一の黒い髪を激しく揺らす。
雪の花が目の前をちらついて、すぐに溶けた。
「そしてこれは、」
「彦一の仇討ちだよ」
見開かれた一家の瞳を見て、彦一は薄っすらと笑った。
そして翻した背中越し、誰かの叫びは届かなかった。
あの雪の日に、幼い彦一は確かに死んだのだ。
彼らの手によって、真綿で絞め殺されるようにゆっくりと。
晩春の夜の宴。
あの日主人が浮かべたのはきっと。
今彦一の胸に宿る感情と一緒なのだろう。
齢は五十にもなろうかという白髪混じりの男は、物騒な生業についている割には、どこぞのお武家様でもあるかのような品を持つ。当主、という立場に似合う貫禄と威厳を備え、怜悧な厳しさでもって彦一達に対する。
彼が殺せ、と一言、冷たく言い放つ声は最早彦一には馴染み深い。
彦一が男の元に売られたのが十の頃、それからかれこれ七年は経つ。その間に同じように売られてきた少年少女は何百にも上る。
年端のいかない子供達に殺しの術を教え込み、どこかしこの戦場に送り込む。大金を積まれ請われれば、それこそ路傍の石ころを池に投げ込むかのように惜しげも無く、子供達の命は朝露のように儚く消えた。
そうやって男は、裏の世界で栄えていた。
男に命じられるまま、彦一も何十何百という人間の命を奪ってきた。それこそ数えたらきりがないし、意味も無い事だ。相手が誰にしろ何の因果を持つにしろ、彦一には関係の無い事だった。
かつては兄と慕った仲間を、その手にかけた事もある。
ただ主人が命じる相手を屠る、それが与えられた仕事だったのだ。
彦一が与えられた仕事をこなせば、男は労いの言葉をかける事もある。ただしそれは上辺だけで、けして男の顔面に感情が上る事は無かった。
どんなに彦一がテダレとして重用されようと、彦一は駒の一つであり、いくらでも替えがきく。何時か自身が斃れても、自分の代わりとなる者が後に控えている事も知っていた。
所詮子供達は、男にとってはそういう存在でしかない筈だった。
江戸の都でその駒の一つが絶えたと聞いたのは、晩春の夜だった。
誰ぞが土産に寄越した酒を、主人が皆に振舞ったのだ。彦一も普段の功績を買われ、一席を設けられていた。酒は嗜む程度、呑まれる程好んでも無い。ちびちびと盃を傾けて、開け放たれた障子の先、散っていく巨桜の様を眺めていた彦一の隣で、俄かにさざめきが起こった。
赤ら顔の男が、勿体無い事だと嘆いて、何事かと皆が一様に耳を傾けた。
【鬼】と呼ばれ畏れられた暗殺者の事は、彦一も風の便りで聞いた事がある。鬼の面を被って、軽やかに、舞うように、人を殺める殺人鬼。目的が何事か知れぬ、殺人快楽者との呼び声高い。それがどうやら自分達と同様に、この屋敷で育った者だったのだという。その腕たるや凄まじく、大の男が何人がかりで飛び出そうと、柳のようにするりとかわされる。そう思った頃には既に傷跡を残されている、のだとか。
その仕事が絶賛されこそ、杞憂など一つも抱かせない、真の刃。
しかしそんな名うての駒も散り逝ったのだというのだから――己らも慢心するなよ、と卓に突っ伏してしまった赤ら顔の言葉を引き継いで、主人の腹心の部下が最後にそう戒めた。
けれど彦一は上座に座る主人の厳しい顔に、一瞬過ぎった陰にこそ気を取られた。
それは今まで主人の表情に見た事が無い色。ただ、彦一の記憶に根を下ろす過去に、別の人間が浮かべた色だった。
かつて自分を捨てた両親が、その最後の日に見せた、後悔、憐憫、哀愁、そして痛みだ。
許せ、と言いながら泣いた父と母。その顔に主人の顔が重なって、我知らず小首を傾げた彦一が――後で知った話には。
その江戸で死んだ【鬼】が、主人の唯一の血縁であったという事実。
人の命など毛程も気に留めていないような、血も涙もないような、あの主人にも肉親の情があったのか、と、彦一はただただ不思議に思ったものだった。
それももう、今となれば数年も前の話だ。
何故今になってそんな他愛も無い記憶が思い起こされたものか、と。
何故こんな時に、と。
彦一はけしてその黒硝子の双眸を揺らす事も無く思った。
喉元では笑ったつもりだった。笑えたつもりだった。
けれど凍り付いた表情は、彦一の頬の僅かな筋肉さえぴくりともさせぬ。
壁に背をつけ、ゆるり、と顔を上げる。
寒い寒いと思っていたら、ついには雪まで降ってきた。
雪は嫌いだ。
好きも嫌いも当の昔に置いてきたと思っていたが、視界をゆらりゆらりと遮る真白に浮かぶ嫌悪感は本物だった。
消したくても消えてくれぬ過去が、時折こうやって浮上しては彦一を苛める。
感情をそぎ落とす事は容易くない。
そうしたいとどんなに願い、そうありたいと切望して努力しても。
凍りつかせた感情は、糸も簡単に浮上する。
雪は嫌いだ。
しんしんと降り積もる雪が、視界を銀色に染め上げていく。暗い夜に、美しく灯る。
かつてその中を、幸福感を持って歩いた事がある。
大好きな両親に手を引かれ、その後の悲しみを知らずに、歩いた事がある。
そんな事を思い出したのも、今彦一が辿る道程が、まさにその時のそれだったからだろう。
幼い足で必死に踏み締めた雪道を、今は一人、軽い足取りで颯爽と駆けている。
しかしその心は足取りとは裏腹に酷く重い。
脇に抱えた風呂敷から、赤い色がぽたりぽたり、雪の上に染みを作る。それは彦一の足跡に、静かに重なっていく。
けれどやがて積もる雪の中に消えていく。
風呂敷を抱え直す。我知らず、抱きしめるように、大事に。
寂れた小さな村は、雪の中に埋もれてしまいそうだ。
田畑は既に跡形も無く、銀一色に覆われている。平屋の屋根からドサリ、重い音が落ちる。
記憶に微かに残る、村。自分が生まれ、幼少期を過ごした村だ。裏の炭坑跡で遊ぶようにして岩を削っていた頃が懐かしい。
懐かしい、と思えた。
自分を拒絶した小さな家。その引き戸を荒々しく叩けば、中から訝しげな問い掛けが返る。
「旦那を連れて来た」
無機質な彦一の声は掠れていた。それでも恐らく中の者に届いたのだろう。慌しく開かれた扉の奥、暖かな家庭の匂い。
遠い記憶に息づく人。
旦那を連れて、と言った筈が、しかし彦一一人であれば誰でも戸惑うだろう。その顔が氷のように何の色も浮かべていないと知れれば尚更。
かつての彦一の家族。
老いた母親。乳飲み子を抱いたあれは姉だろうか。その隣の優男はその旦那だろうか。男の膝の幼女は誰だろう。奥で立ち上がりかけた青年は、一番下の弟だろうか。
けれどその誰もが、彦一を、奇妙な訪問者としてしか見ていなかった。
微かな自嘲が浮かぶ。
一体何を期待したのか、と胸の内に生まれた憤りを嘲る。
自分は一体何を期待したのか。かつて主人が抱いたように、彼らの中に肉親の情でも見出せるとでも思ったか。
固まる家族に向けて、彦一は脇に抱えていた風呂敷を投げた。軽くぽい、と捨てるように、玄関先で鞠のように跳ねたそれ。
ただ包んでいただけだから、風呂敷は動きに合わせて解けた。
出でたものに絶叫。悲鳴。泣き出した幼女を母親と思しき女が抱きしめた。
老け込んだ父親が、一瞬誰だか分からなかった。刃を持って対峙した時、何だか見知っているような気がして。けれど慣れた身体は老人の太刀を避けて肉を切り裂いた。血を吐き出す男の目尻に浮かんだ涙を見て、ああ、と得心が言った。
何故父親が主人の仕事のリストに名を載せたのかは知らない。関係が無い。興味も無い。
ただ自分が「殺せ」と命じられた一人が、彦一を捨てた父親だったのだと。
躯と化したそれを見下ろして、彦一は、ただ納得した。
ああだから見覚えがあったのか、と。
それを家族の下へ持ち帰ったのは、ただの気紛れでしかなかった。
懐郷というには余りに滑稽で。今更愛情など求めても何にもならないし、意味も無い事だ。
こうしてまみえてみても、家族の誰一人、今父親の首を持ち帰ったのが誰であるかに気付きもしないのだから。
「僕が、その人を殺した」
淡々と紡いで、ぞっとする程に冷たい眼差しで彼らを睥睨する。
恐れ慄き、瞳に憎悪を宿す一家を彦一はただ見つめた。
「僕が、あんた達の父親の仇だよ」
やっと過去と決別出来るような気がして、彦一は大きく息を吸い込んだ。
びゅう、と背後から雪が吹き込んだ。
それが彦一の黒い髪を激しく揺らす。
雪の花が目の前をちらついて、すぐに溶けた。
「そしてこれは、」
「彦一の仇討ちだよ」
見開かれた一家の瞳を見て、彦一は薄っすらと笑った。
そして翻した背中越し、誰かの叫びは届かなかった。
あの雪の日に、幼い彦一は確かに死んだのだ。
彼らの手によって、真綿で絞め殺されるようにゆっくりと。
晩春の夜の宴。
あの日主人が浮かべたのはきっと。
今彦一の胸に宿る感情と一緒なのだろう。
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